神様へのお願い

神様へのお願い

<神様へのお願いはどうしたらいいの「願いが叶い、夢を手に入れる祈願の仕方」>

 願いが叶うかどうかの大事な決め手は、神様に届くかどうかです。本当に神様に届いたお願いごとには、不可能と思われるようなことでも、目を見張るほどの奇跡が起きるものです。

 神様へのご祈願とそれが叶うまでの過程には、いくつもの大切な決め手があります。ぜひ皆さんのお願いが叶うように、ひとつずつ解きほぐしていきたいと思います。

 まず第一は、日ごろから神様とのご縁を大切にしておくことです。
人の世界でも、普段からの繋がりが大切。初対面の人に突然大きな相談事などをするのが非常識なように、一生を託すようなお願いは、ある程度のお付き合いと信頼関係が必要です。それと同じように、神様に対して、日ごろ挨拶のひとつもしないで、いきなり大きなお願い事だけ叶えてほしいというのはかなり無理があります。

 ですから朝夕に、神様にご挨拶をして日々をすごしていく、その積み重ねがとても大切です。願い事のときだけ「神様!」というのではなく、日々神様にご挨拶をして一日を過ごしてください。  
 
 神道は、「挨拶に始まり、挨拶に終わる」といいます。そのくらい挨拶を大切にし、そこから神様に通じる道が開けてくるのです。
 人の世界でも、形だけの心のこもらぬ挨拶では、相手の心に届きませんね。神様に届く挨拶は、真心を込めることから始まります。

神社にお参り

<では、毎日神社にお参りするのですか?>

 早朝に毎日お参りしている人もおられますね。それは理想的ですが、雨の日も風の日もとなると大変です。普通はご自分の家の神棚に、日々のご挨拶をします。

 そして朝日に手を合わせてご挨拶をします。
神様のお話の後で、突然「朝日」と言われると面食らうかもしれませんが、じつは日本人が昔からしていたことなのです。

 「お天道様が見ている」という言葉を聞いたことがありませんか?
朝日というよりも「お天道様=命の源」にご挨拶をして一日を始めるのです。朝日に手を合わせ、夕日に感謝して一日を過ごす・・そうしているうちに知らず知らずのうちに命の源に繋がっていきます。

 健康も幸せも、そこに原点があるといって過言ではありません。

 神棚の祀り方について知りたい方は、「神棚の祀り方」のところをお読みください。

ご挨拶の仕方

<ご挨拶の仕方はどうするのですか?>

 神棚では、「二拝二拍手一拝(にはい、にはくしゅ、いっぱい)」といって、二回お辞儀をして、二回拍手を打ち、最後に一回お辞儀をします。

 拍手は、本当に神様に合ったときには、パアーンパァーンと大空に向かって響いていくようなすんだ音がします。ペチペチという音では届きません。

 その後で「おはようございます。昨日はありがとうございました。今日も一日よろしくお願いいたします。」とご挨拶をします。ご挨拶の後、もう一度二拝二拍手一拝します。

ご祈願の仕方

<ご祈願の仕方です>

 一生の中には、何度も神様にお願いしたいと思うことが出てきますね。
 
 「人事を尽くして、天命を待つ」といいますが、真剣に生きている人ほど、それが実を結ぶように、神様に祈る気持ちになるのではないかと思います。
 仕事でも、受験でも、スポーツでも、ここ一番に「運が味方」してくれて、すばらしい結果が出せるようにしたいですね。

 また人の力ではどうにもならないことに出会ったとき、人の命のこと、五体満足に赤ちゃんが生まれてほしいとか、反対にお医者さんにさじを投げられて死の宣告をされたときなど、今まで神様を信じたことのない人でも、「どうかお願いいたします」という気持ちになります。

強く思う

<強く思い、言葉に出す>

 どうしたら「神様に届く」のでしょうか
 神様の世界は「念と言霊」といって、願い事を強く思い、それを言葉に出して言った時に、神様は始めて動い下さるという決まりがあります。もちろんその願い事が、「神様の意に叶ったこと」であることは当然です。

 「人をだまして金をもうけてやろう」「あいつは、にくいから殺してやろう、神様力を貸してください」といっても神様は動いてはくれません。

 なぜ言葉に出していわなければならないかというと、人の心はコロコロ変わるものです。だからコロコロ→ココロ 心というのです。

 いまこう思ったかと思うと、次の瞬間にはすっかり忘れているということなどしょっちゅうです。神様が人の気まぐれのままに動いていては、世の中は大変なことになってしまいます。

魂を繋ぐ

「心変わり」という言葉があるように、人の心はコロコロ変わるものです。ですから神様にお繋ぎするのは、心ではなく、もっと奥にある魂を繋ぎます。

 その魂を繋ぐものを、お玉串といいます。そしてそれをもって神様と人の魂を繋ぐ儀式を玉串奉奠(たまぐしほうてん)といいます。

 人の魂は、本来は丸い球体をしています。丸とは、すべての面にかけたところのない姿、円満を表します。

 しかし神様にお繋ぎする時には、自分の中に確固としたもの、揺るぎのないものが必要です。だから丸ではなく、四角の口の字を書いて、お玉串とするのです。
  
 四角とは、固める、ゆるぎない姿を表します。人の心は変幻自在なものですが、神様の前に立つときには、これで揺るぎませんという確固としたものをお繋ぎすることが大切です。

 それが神人合一の儀式、玉串奉奠です。神社で正式参拝を申し込んだときの玉串奉奠には、こういう意味があります。

そして本当に繋がったときに、神様の魂、力が皆さんの中に入り、いろいろな願いが叶う原動力になっていくのです。

大事な決まり-1

<大事な決まり『神と人との共同行為』>

 「神様にお願いしたから、人は何もしなくても、その願いが叶う」と思ったら、大きな間違いです。何一つ勉強しないで、大学や司法試験などに合格したいという願いをかなえたら、一生懸命に勉強した人がかわいそうです。

 またスケート靴を履いたこともないのに、「オリンピックで金メダルを取りたい、でも努力はいや、何とか神様の力で」ということに近い祈願をする人が結構います。

 特にオリンピックくらいになると、「本人の素質と努力と運」が、絶対に必要です。
 今まで成功した人を見ても、一生懸命にして、その後、褒美として神様が力を与えてくださったことが多いのです。

 その願いに対して人がどれだけ努力するかを神様は見ておられて、それに相応のことをしてくださるのです。これを相応の理といいます。

大事な決まり-2

<大事な決まり『相応の理』>

 この『相応の理』は、神様にお願いする上で、とても大切な決まりです。
繰り返しますが、皆さんの思いの深さや熱意に相応して、神様が力を加えてくださるということで、いい加減な気持ちでのご祈願には振り向いて頂けません。

 「人が全力で行うときには、神もまた全力で行う。人がついでと思えば、神もまたついでに行うこととする」と言われます。

 ここで間違えてはいけないのは、人の世界のついでは何日に一回か、あるいは何ヶ月に一回あるかもしれませんが、神様の世界のついでとは十万年に一度あるかどうかだということです。

 私たちが生きている間に、神様のついでに出会うことなどまずありません。
 それでは生きている間に、願いは叶わないことになってしまいます。

 ですから神様へのご祈願を「ついで参り」で行うことは絶対に避けてください。東京に行くついでに、○○神宮に寄ろうなどということです。

祈願の実例

<ある選挙の祈願のお話>

 こんな例があります。ある方が、政治家を志し立候補していましたが、県知事選、衆議院選などことごとく失敗して何年も浪人しておられた時に、人のご紹介で当会を尋ねてこられました。

 大変に申し訳ないのですが、神様は今の政治家の方は大変に嫌っておられます。
 世の中を狂わせた張本人として。ですから藤原先生もめったに選挙祈願はお受けになられません。しかしお受けした祈願の方は、今まですべて当選しています。
 それを聞いて、選挙参謀の方が何度も足を運ばれ、いったんはお引き受けいたしました。

 ところがこうした大事なご祈願の時には、当選祈願の祝詞を作り神様に奏上するのですが、このときには何度書いても途中から仏事のような薄い色になってしまい8本くらい新しい筆ペンをおろしたのですが、すべて同じ結果になってしまいました。そこで先方に、「いったんお引き受けいたしましたが、祝詞がかけない以上はご祈願をお受けすることは出来ません」とお断りの電話を入れました。そして「ところで、あなたは東京に来るついでにこちらに寄ろうとしているのではないでしょうね」とお尋ねしたら、まさにそのとおりでした。

 東京の支援者の方とお会いするついでに神様の所に寄ろうとしていたのです。
 そこで「相応の理」のお話と「ついで参り」では意味がないことをお話した所、次の時には秘書も連れずに、お一人でそのためだけに上京してこられました。

 その時には、祝詞を書いているときに「清らかな票のことごとくが集まり」とという文言と、祝詞の途中からは「当選の祝杯を挙げている」言葉まで出られたので、これは当選確実だと思っていたら、実際にトップ当選をされました。


 皆さんの「その時限り」の願いに対しては、神様も「その時限り」でしか答えてくれません。これも「相応の理」です。

 ですから「ついで参り」は、絶対に避けてください。せっかく神社におまいりするのであれば、神様に皆さんの心が届いて、運が開けていくようにしてください。開運の鍵は、こうした所にもあります。

人生の金メダル

<人生の金メダルを取りたいというときには>

 たとえば荒川静香選手のように、オリンピックで金メダルを取りたいという夢を叶えることの出来る人もいます。でも同じ時に同じ願いをほかの選手が叶えることは出来ません。
 特に勝負事は、実力が伯仲している時には、その人のもつ力を存分に発揮し、そして幸運の女神が微笑んでくれた人が勝つのです。

 神様へのお願いは、自分の力を十二分に発揮させて頂きたいというお願いと、神様から「幸運」を頂けるようにお願いするのです。

 仕事でも、素晴らしい製品を開発する為のヒラメキを頂けるようにお願いし、人も全力でそれに取り組む。しかしその出来た製品が世の中に受け入れてもらえるかどうかは、その年の天候やいろいろな社会情勢でも変わってきます。

 たとえば素晴らしいエアコンを開発したとしても、その年が冷夏では売れないのです。
 やはりヒットに繋がる「幸運」を手に入れられるようお願いするのです。

願いが叶ったとき

<願いが叶ったときが、大事>

 そして運良くその願いが叶ったとします。その時が一番大事なときなのです。
 大願成就といいますが、願いが叶った時には、真っ先にお礼に伺いましょう。
 「よそと比べて、どういうわけか商売が順調にいっている」「なぜか体調がいい」などとうそぶく人がいますが、人の願いは人生に一回きりということはありません。

 必ずその願いが叶ったら、さらにその先に別の願い事が出てくるものです。
 しかし今の願いのお礼も言わずに、次の願いをしても神様にはとても届きません。

 神様に対しては「感謝とお詫び」が一番大切といわれます。
 まず感謝です。そして神道の収穫祭(新嘗祭とも言います)に、「初穂」といってその年に一番初めに取れた稲穂をお供えしますが、それは農作業としてその年一年の収穫を真っ先に神様にご報告と感謝をするためです。

 それと同じように、何かの願い事が叶った時には、まずお礼に伺い、ご報告と御礼をしましょう。

神様へのお礼

<どのくらいお礼をしたらいいのですか?>

 今、一般に神様に対してのお礼は、少し皆さんの感覚がずれているのではないかと思います。神社で、百円、五百円のお賽銭を投げ入れて、神様に家内安全から、良縁祈願、商売繁盛まで頼む人が多いせいか、隣の駅にもいけないような金額で、平気でいる人が多いのには驚きます。

 また反対に新興宗教などで、身ぐるみはがされるような悲劇が起きているせいか、金銭には、ものすごく神経過敏な人も多いのですが、人の世に置き換えたときにどうしているのかをひとつの基準にしたらいいと思います。

 お医者さんにお願いするときには、風邪薬の場合とは異なり、心臓や脳の手術などの場合には、相当な費用を必要としますね。神様の場合にだけ、五百円、千円で「治してくれ、治してくれ」というのでは、思いがこもりません。願い事の内容とその人の生活に応じた金額をお納めするべきだと思います。

 国からは、何もしなくても消費税として5パーセントとられるのです。弁護士さんにはどのくらいなさるでしょうか。それと比較して、神様がしてくださることに対して、また仕事などで願いがかなったときには、その何パーセントとか、1割とか、これはひとつの基準で、あくまでご自分の真心がこもる範囲でお礼をされたらよいと思います。
 
 ちなみに「万」という単位は、「よろず」を表します。「よろず」とは「すべて」を含んで神様にお繋ぎをするということですから、神様への大事なお願いや、お礼のお玉串には、「していただいたすべてに感謝の心を込めて」出来れば一万円以上、その上は自分の真心のこもる範囲で考えたらいいと思います。

 大事なのはそのときの心、神様に通じるのは「真心のみ」といわれるくらい、そのお礼やお供えに真心がこもっているかどうかが大切なのです。
義務で「・・をせねばならない」というようなことは一切ありませんので、するときは「真心」を必ずそこに込めましょう。特に「こんなもんでいいだろう」という思いでする御礼は、最低です。神様に対しては、人のほうが謙虚な気持ちになるという基本をどうか忘れないようにしてください。

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